生きるための大事な話

大自然からの法話説法

2026年4月11日(土)「上辺だけの感謝ですか?」

「上辺だけの感謝ですか?」

 

あなたは親、夫や妻、子供、兄弟、姉妹などの家族が、あなたに対して、どのような気持ちで接しているのか?自分は、家族の中でどのように見られているか?など考えたことがあるでしょうか?
同様に、職場の人たち、学校の仲間、周りにいる人たちからも、好かれているのか?嫌われているのか?また、何か役立っているのか?逆に、足を引っ張っていないのか?迷惑をかけていないか?など、考えたことはあるでしょうか?
もしかして、家族には「自分はいま試験中だから…」「自分には仕事があるから…」「自分は子育て中だから…」「自分は病気だから…」と、また職場では「急いでいるから…」「やることが多いから…
と、自分をかばい、つい甘やかせ、自分のことばかりを考え、相手の都合や事情を後回しにしていませんか?
それでは好きなこと(我欲)をして、周りを見失っていませんか?本当は、我儘ではないですか?
そのような「心掛け」では、家族や周りにいる人たちのことを考えている、また「ご神示」をしていると言えるでしょうか?
「自己の住位と分限」「感謝と責任」という原理原則がありますが、それに照らし合わせてみてどうですか?
矛盾ですが「仕事は、忙しい人に頼め」とも言います。
忙しくしているのに何故?と思うのですが、その人の方が捗(はかど)る、その人が段取りが善いという事の証明でしょう。
「忙しいから、ダメ」と自分から阻害するのではなく、「理外の理」で、忙しいけど他のために動く方が、ひらめ(観)や段取りが(能き、仕合わせ)良くなって、いつの間にか自分の物事も上手く行く。
先ずは、自分の都合や立場を考える前に、家族や周りにいる人たちなどに対して、「どのような気持ち(感謝)を持たなくてはならないのか?
を考えていますか?
大自然は言う、周囲の人へ心から「感謝」する気持ちを持っていますか?
家族が居て自分は役に立っている、生かされている、職場が有るから給与も手に入る、そのことについつい当たり前になってしまう。感謝を忘れてしまう。
また、心から「有難い」という気持ちを持たなくては「恩」を感じることは出来てないことを知っていますか?
あなたは、心の心底から「魂磨き」をさせて頂きたいと思っているでしょうか?

2026年4月10日(金)「感情は、休まない?」

「感情は、休まない?」

 

人とのつながりを大切にする、人とのつながりが歪まないように継続していくためには、相手のことを常に考える。

まして大切な相手なら、考えを「休める」ことが出来ないのを知っていますか?

なぜなら、相手の事を考えない「休める」ということは、「ご神示」を忘れ「大自然からの霊(観応)」を受けないことになり、「いつも(元)の自分」に戻ることになるのです。

大自然は「ご神示を止めた時、預かった『業』はすべて返す」と仰せになっています。

せっかく変わろうとして努力したのに、善くなりかけたのに、その努力が無駄になる。

元に戻る、業を戻されることになれば、我である自我、我知、我計、我欲、癖、性格、性質を基に、言ったり、行動したりで、相手に再び元のサイコロボール(悪)を投げることになるのは当然ではないでしょうか?

つまり大自然からの自然調整制御作用(慈悲)も能きも受けられないから、目には見えないが、家族や友人、知人など周りの関係が上手くいかない方向に向かっていくのではないでしょうか?

それは、大自然の「業を預かる」という力、智慧の本当の凄さが見えないから、分かっていないのではないでしょうか?

病気が良くなる、もめない喧嘩しなくなる、不良品や事故が減る、資金の回りが善くなるなど、大きな恩恵を受けている。

大自然は言う、「どのように心(思い)を持つか?」「どのような感情(サイコロボール)を投げるか?」で「善」「悪」が起こっていくである。

自分は「喜」を投げたと思っていても、自分がそのように思っているだけで、それが「喜」であるかどうか?は、相手の判断ではないでしょうか?

やはり、そのことが分かるのは、大自然であり、お伺いしないと分からないのではないでしょうか?

だから「ご神示」は欠かせないものであり、相手と関係が少し上手くいった、家庭が善くなったからと思っても、「ご神示」を止めれば、直ぐに元に戻されるのである。

なぜなら、心は常に動くものであり、人は絶えず感情を使っているからなのである。(諸行無常、新陳代謝還元作用)

2026年4月9日(木)「無になる心」とは.

「無になる心」とは

 

あなたは、自分自身の「考え方」「経験(地位)」「物事の捉え方」を前に出し、どのような時も自分流に物事の見方をしていませんか?

「何々高校、大学を出た」「どこの所長だった」「収入はいくらあった」等、他人より優れていたと思う。

そのような自分が持つ拘り、(世間から見ると)偏見、価値観、考え方に気が付かないまま、自分にとって良いように納得したり、また人を見下し、他人を批判する目で見ていませんか?

そのような人は、意外と自身のやっている物事の進め方、段取り、仕舞い方の不手際、稚拙さに気が付かないでいる人が多いのです。

何故そのようなことをしてしまうか?それは、実は、自分の本当の事(姿)を分かっていないから、自分が正しいと思い込んでいるから、自己満足しているからではないでしょうか?

昔のままで停滞している、変わっていない、変化しない人である。

その上、いつも心の中で、「誰にも負けたくない」「自分は優れている」また、「あの人よりも、自分の方が上である」など思い続けているからではないですか?(我欲、面子)

また、そう言う人に限って、直ぐに自慢話しをする、知らない間に自分を褒めるようなことを言ってしまう、自分を煽(おだ)ててくれる人を傍に寄せたがる。

別な言葉で言うと「お山の大将」「ボス猿」などと言います。

大自然は言う、「他人を認める」ことが出来なければ、「形而上学」を学ぶことは難しいのである。

なぜなら、自我が邪魔して、他人の話しを正確に聞くことが出来ないからである。

また、形而上学では、和衆を見て、和衆から聞いて、自分の学びにするために、よく聞くからである。

「話しを聞く」とは、話している人の言葉を聞き入れるために、自分は一度「無になる心」が必要なのである。

初めの説明(オリエンテーション)でも、掘り下げにおいても、「これは知っている」「もう聞いたから…」「またか…」とやってしまう。

「無になる心」とは、何度か聞いた内容でも、余分な拘りを持たないで聞ける耳を持つことである。

その「耳」を持たなければ学ぶことは難しいし、我、慾、都合が邪魔して「大自然(神)」の言葉すら耳に入らないのである。

2026年4月8日(水)「今言う、その一言を大切に?」

「今言う、その一言を大切に?」

 

あなたは、「今」を大切に生きていますか?

「何か、嫌なことがあった!」「思うようにいかない!」「イライラする!」

そのようなことで、親(義理)、夫や妻、子供、兄弟・姉妹などに、あなたの不満をぶつけたりしていませんか?

また、その繋がりで職場の人たち、学校の仲間、周りにいる関係ない人たちに対して、無愛想な挨拶をしたり、冷たい態度で接したりしていませんか?

この様な状態を、子供じみていて「我が儘な人」「自分勝手な人」「自己中心な人」とは言いませんか?

何かで自分が落ち込む、嫌なことがある、それを引きずることで周りに迷惑をかけ、悪い空気を撒いていくと、今以上に悪い状況になって自分に返ってくるのではないでしょうか?

また、自分でなくても自分の大切な人(家族)や物、物事(仕事)にその反動(戒め)が返って来る。

これが、一般には知られていない形而上の見えない繋がりですよね。

要するに、いつの間にか自分が、自分で、自分と、自分の周囲を、悪い方向に、向かうように向かうようにしているのです。

悪い癖であり、あなたの持っている業の所為(せい)でもあるのです。

大自然は言う、もし自分が傷付いたなら、反発するのではなく、そこで「抑える」ようにならなくてはならないのではないか?

もちろん知らせであるから、何の意味があるのか?何が悪かったのか?を解く。

それを何度か繰り返す、「苦しい」と思っても「変わる」ために、何度も繰り返す、努力する。

すると、気付いた時にその悪い癖が無くなっている。

それが、「今」を大切に生きていくことに、また、自分や周囲を大切にすることに繋がっていくのではないでしょうか?

感情のサイコロボールを投げるとは、相手の感情を「善に?」「悪に?」動かすことになる。

だから、その時の「ご神示」は欠かせないものなっていくのです。

2026年4月7日(火)「家族だから、起(怒)こっていく?」

「家族だから、起(怒)こっていく?」

 

あなたは、親(義理)、夫や妻、子供、そして、兄弟・姉妹(義理)などに対して、「何あれば(お願い事)、手伝いをさせて…」「困ったことがあれば、助けるよ」という、「何か役に立ちたい」気持ちを常に持っていますか?

それとも知らぬ顔で、やり過ごせますか?

また「役に立ちたい」という気持ちが心に湧いてくる、「させて頂かなくてはならない」という気持ちにさせられるのは、あなたが「家族」の一員であり、縁あって結ばれ、絆(結婚)を持つことになったからではないでしょうか?

家族になる、家族であるとは、義理や再婚の関係であろうと、因縁の類、前世からの繋がりの結果と言われている。

共に寝て、起きて、食べて…を繰り返す内に、誰もが「特別な心(良好、嫌悪)」を持つことになっていく、それが「家族」というものではないでしょうか?

何も問題や衝突がないと、「ここ(家族)で、大丈夫かな?」「(関係は)上手く出来ているかな?」など、心配する気持ちを持つ、考えるのも「家族」であるからではないでしょうか?

そして、言葉では言い表せない「情」を心に持つことになり、そのことで「喜怒哀楽、愛悪」の感情があからさまになり、互いが遠慮なく感情をぶつけるが為に家族関係が「善い」「悪い」のどちらかに分かれことにもなっていく。(業)

家族を思うが故に、色々なこと(好き、嫌い)が起こっていくのである。

また、社会生活(職場)でも家族との写し絵になっていることを忘れてはならない。(合わせ鏡)

大自然は言う、家族とは自分の持って生まれた宿命(自己の住位)の結果であり、それが生き方の「元(原点)」になり、いつもその場から運命が始まっていくのであり、生きている限り、家族から逃げることは不可能なのである。

それ故に、自分の運命を「善」(ご神示)にするためには、「家族」とは、なくてはならない存在(磨き砂)でもあるのである。

家族のために「生きる」、また自分は家族のお蔭で「生かされている」という真実も考えなくてはならない。

2026年4月6日(月)「先ずは、自分の非を認める?」

「先ずは、自分の非を認める?」

 

あなたは、自分にとって、不都合で善くないことが起こった時、直ぐに「誰かが悪い!」「あの人の責任だ!」「相手が悪いからだ!」と考えていませんか?

一方的に相手を責める考えや態度になっていませんか?

あなたは、「自分は悪くない!」「一生懸命やっているのに!」と、自分に非があることなど全く考えない。

そして「悪かった」としても認めることが出来ない、言い訳ばかりではないですか?

果たして、「完璧(心、行動、発言)な人間」って、世の中にいるのでしょうか?

家族の中で、夫婦の間で、友人、職場の中で、問題が起これば、いつも誰か?何か?の責任にして、自分は責任逃れをしてしまう。

それでは、今よりも状況は悪くなっていくばかりではないですか?

ここがダメなら次へ、この人がダメならまた次の人へ、この職場がダメなら次の仕事へ、この家族がダメなら次の家族へ…と。

問題の原因は何で、原因の解消はどうしたら善いのか?は、放置されたままですね。

だから、例えそのことから逃れられとしても、また同じことが起こった時、果たして上手く逃れられるのでしょうか?

今度は、相手から、家族から、そして世間から「愛想を尽かされる」ことになり兼ねないのではないですか?

悪因悪果、原因の結果、因果応報、因果業報、自分がして来たから、自分に返って来たとは考えられませんか?

大自然は言う、どんなことも、長い間の小さな積み重ねが「結果」になっていくのではないか?

「善を積むか?」「悪を積むか?」それは、日々の心の使い方であり、サイコロボールをどのように投げるか?である。

「喜、怒、哀、楽」その投げる一つ一つの感情が、相手の心に(見えないが)一つ一つ積み重ねられていき、仲良く出来たり、喧嘩になったりしていくのである。

物事は、一度には起こらない。「300・29・1の法則」通り。

もしそれが夫婦、家族となれば、どうなのか?どうしたら善いのか?

自分が変わるべきではないか?を考えなくてはならないのではないでしょうか?

あなたは、人の心を「ぬくもり」を持って家族に接していますか?

2026年4月5日(日)「学びは、和衆?」

「学びは、和衆?」

 

あなたは、人との出遭いを大切にしていますか?大切にして来ましたか?

そして、その人との繫がりを持つために、今も何か努力をしていますか?

形而上学、即ち「大自然の法則」学ぶためには、人と繫がりを持たなくては学ぶことが難しい、さらに理解の度が低く、成長しないことを知っていますか?

つまり、目に見えない動き、能きの中に、「心」の動き、使い方が非常に大きなウエイトを占めるのです。

その心は、孤独では動かせず止まったまま、一人でいては心をどのように使うのか?考えることもできない。

相手がいて、相手とのやり取りが有ったり、多数の人間がいるからこそ、心遣いが磨かれていくものである。

そうなのです、どこまでいっても、自分の「心」をどのように使うか?(サイコロボールをどのように受け、投げるか?)が問われていくのです。

形而上学の学びの場では、まず話している人の話しをよく聞き(実践の話し)、人の交わり持ちながらお互いが体験や法則を教え合い、法則とのずれに気付き合いながら、その上で自分の「心」との照らし合わせをしながら、学んでいく「和衆」の学びなのである。

人は、人と繋がることで、その人の反応から「善、悪」を知り、自分の行動、考え方、心がどうなのか?を判断し知る。

要するに、人と人の繫がりを持たなければ、様々な考え方や思いが分からない、視野が広がらないのである。

他人との比較ではない、人の仕草でわが身を顧みるのでもある。

この学びは、「和衆」で学びをしていくことで、お互いがお互いを高め合っていく学びなのである。(教学相長)

そのためには、和衆の場では噓偽りなく、自分をさらけ出し、「素直な心」であることが必要になってくるのである。

また、自分の心が「素」になることで、「何が善いか?」「何が悪なのか?」が暴かれていくのである。

大自然は言う、「素(本心)」にならなければ、心を飾っていては変わることは出来ない。

そして、観応させて頂けないのである。

2026年4月4日(土)「繫がりを忘れていませんか?」

「繫がりを忘れていませんか?」

 

あなたは、人との繫がりを、どのように考えていますか?大切に考えていますか?いい加減に考えて居ませんか?

知人、友人、同級生、取りき先、同志、親族、家族など、関係はさまざまですが、出会ったその人達との関係を、どのように捉えていますか?

その人との繫がりを継続していますか?それとも、連絡をやめましたか?

会わなくなったら、関係が無くなったら、それでお仕舞ですか?

世の法則に「偶然はない」と説かれています。(「諸行の必然性」)

「前世、また前々世で関係があった人と、今世で遇(あ)わされる」という教えもあります。(「宿命、運命」)

まして、親族となった人とは、もっと深い関係があったのかもしれない。

では、「親(義理)との繫がりは大丈夫ですか?」「結婚してから、親(義理)に欠かさず連絡していますか?」「単身赴任の夫に、毎日連絡していますか?連絡はありますか?」「離婚などして、離れた子供と会っていますか?メールのやり取りはありますか?」

人との関係は、連絡をしなければ心の繫がりが「途切れ」ていき、その上相手のことが、分からなくなり、「心」を見失うことになるのではないでしょうか?

また、お互いの心も「冷めていく」ことにもなるのではないでしょうか?

「心を繋ぐことが、人を繋げ、自分達も生き残れることになる」「今のままでは、人類は生き残れない」と大自然は言われています。

「心」を繋ぐためには、まず連絡を絶やさないことではないでしょうか?

時間がなくても、話すことが見つからなくても、「どうですか?」と挨拶を交わす一言で、「元気です」とLINEで連絡をすることで、心を癒すことが出来るのではないでしょうか?

大自然は言う、必要なことは、相手(親、家族など)を思う気持ちを何時も忘れずに持っているかどうかではないか?

何が大切か?一番は、大切な相手の「心」を、自分がどのように大切にしていけるかどうかではないだろうか?

あなたは、大切にしなければならない人と、その人の「心」を放置していませんか?

「粗末にしたら、粗末にされる」「無視したら、無視される」「助けたら、助けられる」(因果応報)

あなたが今、助かっていないのなら、まだ誰かを助けていないから。

2026年4月3日(金)「一言が、運命の分かれ道?」

「一言が、運命の分かれ道?」

あなたは、「大自然の法則」を学び、知っていく内に「この学びは、凄い!」「間違いない!」「神に通じた!」と思う気持ちから、自分の周りにいる家族、職場の人たち、学校の仲間などに、「学び」の考えかたを押し付けるようなことを、やってしまうことはありませんか?

家族(主人、妻、子供)が風邪を引いた、それを見て「知らせヨ!」「悟りなさいよ!」と、上から目線でやってしまう。

事件、事故の報道を見て「前知らせがあったのに…」「次にまた何か起こるよ」「教えを知らないから仕方ないよな!」と、独善的になっていませんか?

また、「法則」を知り、ご神示で伺え、物事が上手く行くこと等から、「自分は常に間違っていない」と自惚れ、行き過ぎた自信のようなものを持っていませんか?

さらに「ご神示」をしているから、「大自然にお尋ねしたから」すべて「上手くいくはずだ」などと下心、慾を持っていませんか?

ご神示とは、そのような考えで大自然にお伺いするのではなく、「今どのようにさせて頂くのが「善い」のか?」「相手、周囲にとって何が善いか?」をお伺いするために、「観応」させて頂くためのものなのです。

自分の行動や発言を問うのですが、「相手にとってどうか?」「相手の都合を考えて」「自分をどう変えるべきか?」「何が足りないのか?」のご神示なのです。

大自然は言う、「ご神示」する時の、心にある思い、考え、癖によって、自分の「心掛け」によって「大自然のお応え」は変わっていくのである。

やはり、「一言言う」「何か問う」「返事する」というサイコロボールを受け取る、投げる、その時の自分自身がどうあるべきなのか?

「どのように相手に接するべきなのか?」「どう言うべきか?

が、相手を喜ばせる「一言」が、未来に大きく関わっていくのではないでしょうか?

ドラマ、アニメなどのように、次々展開していく次の「ワンシーン」(相手の反応)の事を考え、どれだけ大事に思うか?善くしたいと思うか?で変わっていく、それが運命も変えていくのではないでしょうか?

その「ワンシーン」に対して、「これを言うべきか?」「待つのか?」「この言い方で善いのか?」という「ご神示」は必要不可欠のものではないでしょうか?

あなたの「一言」が、善にするか?悪にするか?で、あなたの運命の分かれ道を、絶えずあなたは歩んでいるのである。

2026年4月2日(木)「思いには、限界はない!」

「思いには、限界はない!」

あなたは、親(義理)や夫や妻、子供、そして兄弟に伝えなくてはならない、相手にとって必要なことを、必ず言えていますか?
欠点、癖や物の言い方、態度、出過ぎた行動など、気付いたままで放っていませんか?
また言い辛(つら)いことを後回しにして、言わなくても良い余分なことを言って、そのことでお互いが気まずくなり、言えないままに時間が過ぎて居ませんか?
同じように、職場の人たち、学校の仲間、趣味のサークル、勉強仲間などにも、言わなくてならない肝心なことを言えなかった、言いそびれたことはありませんか?
そんな自分の性格をどう考えますか?優柔不断、自己弁護、面従腹背、危険回避の卑怯者と思いませんか?
特に、形而上学の学びでは、同志による絵姿の掘り下げ、法座中に聞き逃したこと、勘違いしている事、追加のご説法など、「言って上げようか?」「言わなくてはならない」と思う事が有ります。
反対に「分限や立場を超えてはならない」等の自制作用もあります。
その言えない時に限って、何故かその人が問題を起こすきっかけになり、「あの時に、言っておけばよかった?」と思い後悔するようになるのではないですか?
では、どうすれば良いのか?自分は要らぬお節介をしようとしているのか?
「勇とは、私利私欲が有ってはならない」(当来佛)
そんな時、自分の勝手な思い込み(怠慢、面子)があり、「また、後で言えばいいわ!」「言わなくても、分かるわ!」「知らせが掛かるよ!」「嫌な顔をされたくない」などの自己判断をしてしまい、「必要?」「
必要?」の「ご神示」を忘れている時ではないでしょうか?
そして、実行するには相手の状態、心を考えて「言い方」を考える必要がある。それには「信」が最も大切です。
大自然は言う、人と人の繫がりを大切にしていくことに対して、「ここまですれば、良い!」という心の出し惜しみが、そういうことを起こしていくのである。
「心遣い」とは、相手の「喜」のためにさせて頂きたいと自分自身が思うことであり、それは、どこまでも、いつまでも、限りないものではないか?
それが、「愛」ではないか?