「無になる心」とは
あなたは、自分自身の「考え方」「経験(地位)」「物事の捉え方」を前に出し、どのような時も自分流に物事の見方をしていませんか?
「何々高校、大学を出た」「どこの所長だった」「収入はいくらあった」等、他人より優れていたと思う。
そのような自分が持つ拘り、(世間から見ると)偏見、価値観、考え方に気が付かないまま、自分にとって良いように納得したり、また人を見下し、他人を批判する目で見ていませんか?
そのような人は、意外と自身のやっている物事の進め方、段取り、仕舞い方の不手際、稚拙さに気が付かないでいる人が多いのです。
何故そのようなことをしてしまうか?それは、実は、自分の本当の事(姿)を分かっていないから、自分が正しいと思い込んでいるから、自己満足しているからではないでしょうか?
昔のままで停滞している、変わっていない、変化しない人である。
その上、いつも心の中で、「誰にも負けたくない」「自分は優れている」また、「あの人よりも、自分の方が上である」など思い続けているからではないですか?(我欲、面子)
また、そう言う人に限って、直ぐに自慢話しをする、知らない間に自分を褒めるようなことを言ってしまう、自分を煽(おだ)ててくれる人を傍に寄せたがる。
別な言葉で言うと「お山の大将」「ボス猿」などと言います。
大自然は言う、「他人を認める」ことが出来なければ、「形而上学」を学ぶことは難しいのである。
なぜなら、自我が邪魔して、他人の話しを正確に聞くことが出来ないからである。
また、形而上学では、和衆を見て、和衆から聞いて、自分の学びにするために、よく聞くからである。
「話しを聞く」とは、話している人の言葉を聞き入れるために、自分は一度「無になる心」が必要なのである。
初めの説明(オリエンテーション)でも、掘り下げにおいても、「これは知っている」「もう聞いたから…」「またか…」とやってしまう。
「無になる心」とは、何度か聞いた内容でも、余分な拘りを持たないで聞ける耳を持つことである。
その「耳」を持たなければ学ぶことは難しいし、我、慾、都合が邪魔して「大自然(神)」の言葉すら耳に入らないのである。