生きるための大事な話

大自然からの法話説法

2026年2月23日(月)「法座とは」

「法座とは」

昨日は、広島での「大自然」の法座であった。

参加した者達は、法則を耳に聞き入れ「何かを、感じただろうか?」「分かったことが、有っただろうか?」「何かに気付いたことが有っただろうか?」

法則のこの学びとは、耳に聞き入れたことを、まず「心に受け止め」「心に聞き入れ」大自然の教えの意味を「心に刻み感じ」なければ、そして自分に当てはめて「どうであるか?」「出来ているのか?」「足りないのか?」それとも、「考え違いをしていたのか?」を、自分の「心に問うて」みることが出来ないのである。

そして、疑問については発言し、追加質問し、さらに納得する。

時には苦い思いをし、自分に恥じ入り、赤面もして、改心する、すると初めて法が自分の物になるのである。

これが出来る場が、「法座」であり、法座の価値なのである。

法座とは、大自然が直接出現され、大自然の目でご覧になって、直接言葉でご指導くださる場である。

大自然は、常に見て、聞いて、知っておられ、知らせを掛けておられる。

しかし皆、日常自分がやっていること、癖、個性などに気が付かない。

いつも行っていることが当たり前になり、その上そこには、可、不可の「ご神示」はない、抜けている、出来ていないのだ。

それでは親(義理)、夫や妻、子供などとのこれまでの関係性は変わらない。

絶えず気まずい思いをする、ちょっとした口論や行き違い、思い違いになるなど、常に和合ずれが起こってくる。

そのような、自分に気が付かない細かい癖が、他人を通して学べる、他人の失敗から教えられるのが、この「場」ではないだろうか?

だから、わざわざ学びの「場」に足を運ばなければ、学ぶ範囲は広がらない、視野が狭いままで、気が付かなくてはならないことも知らないままになるのではないか?

その学びは、時間と労力と金銭に替えられないもので、一生の宝である。

もし困り事や問題(借金、暴力、子供が不登校、無職、癌、脳梗塞、鬱病などの病気)で苦しんでいるのならば、法座に参加して、心から真剣に大自然の法則を学ばなければならないのではないか?

「法座」には必ず、気付きと、納得、確信、さらに将来への希望が用意してある。